ツキ呑み④「ラベルと栓抜きと暗闇の巻」

 

呑みたい気分でツキイチエッセイ

 「ラベルと栓抜きと暗闇の巻」

 

 ―― 瓶ビールを注ぐ時は、相手が銘柄を見られるようラベルを上にし、両手で持つ。

 

 飲み会の場でそんな話が出て、とても驚きました。しかもそれを語ったのは就活中の大学生男子。年配の方と同席した際にそうした礼儀を「知っている」「実践できる」ことは重要なのらしいです。へぇぇ~。

 妙に深く感じ入りました。確かに20~30年前は気にしていたけど、いまやすっかり忘れてた。20~30年(もっとかも?)前より之堂々酔っぱ道を貫くワタシとしては、おぬしまた出てきおったかと亡霊にでも出会った心持になってしまいました。

 

 この件を持ち帰ってダンナに話したところワタシ同様「20~30年前は聞いたなあ」と軽く慄いておりました。永く酔っぱ道を歩く人又之在り。結果夫婦揃ってテンションがあがり、缶ビールを飲みながら交わした会話を一部再現いたしますと。。。

 

「そもそも最近瓶ビールって飲まないもんね」

「缶より瓶の方が絶対おいしいけどね」

「ラベル云々よりも栓抜きとか使えるのかな若い子」

「ひとのことよりウチの息子、栓抜き使えなくないかな。。。」

「……使えそうにないなあ。。。」

「ところで(就活もそろそろな)ウチの息子、瓶ビールのラベルのこと知ってるかなあ。。。」

「……知らないだろうなあ。。。」

 

 瓶ビールの作法を懐かしがっているうちに親力が試される痛恨を味わってしまいました(息子の生活自立度に関しては急ぎ確認いたす所存です)。

 

 栓抜きとか缶切りとか、ここ数年すっかり不要になってしまった感があります。かつて必需品だと思っていたものがいつの間にか不要になっているということにふと気づく時、より便利に、もっと簡易に、最速で !という方向にばかり進むことに一抹の不安を抱かされます。

 

 閑話休題

 

 先日、素話を語る「こわいおはなし会」がありました。暗くした室内に招き入れた子どもたちに向けて「こわいお話」が語られます。まず3話、休憩をはさんで5話。80名からの大勢の子どもたちが、じっと静かに聞き耳を立てており、ワタシもまたとても楽しんで聴かせていただきました。

 

 語り手さんの言葉をしっかりと聞き取り、想像力を働かせてお話の世界を頭に描く素話。覚えて語る語り手さんも大変ですが、聴く側にも集中力が求められます。ゆえに人数も重要で絞られるため、聴く側の子どもたちがある人数(20名 ?)を越えた途端、それこそ空気がガラリと変わるほどだそうです。

 

 ところが「こわいおはなし会」のその日、広い会場いっぱいの人の中で、昔の田舎の夜道を彷彿とさせる仄暗さの中、そこだけ浮かびあがる語り手さんの顔を見ながらお話を聴いていたら、そのひと言ひと言が物語のパーツを映しだし、動かして、まるで幻燈を見ているかのようにたやすく想像ができたのです。

 

 集中力に乏しい(?)ワタシをしてこれほどということは、果たしてこの暗さのおかげではないだろうか。そう感じた時、「語り」とは、あるかなきかの乏しい明かりの下でこそ培われた性質のものであることに考えが至りました。

 

 栓抜きや缶切りが不要になるほどの性急さで簡単便利が求められていく今、灯りすら求めずにお話の世界に身を置く時の想像力の広がりや通じ合うぬくもりをきちんと感じることが、特に子どもにとってはどれほど貴重な体験になることか。

 

 瓶ビールのラベルの向きにひっかかった結果、別のモノ思いに耽ってしまった酔っぱの夜となりました。

  

                  2016/8/31