「成長」する父の思い出

 

「成長」する父の思い出

2020年4月3日 朝日新聞朝刊生活面「ひととき」より

 

「亡くなった人も成長する」

 素通りしそうになってから、立ち止まって振り向きじっくり読んでみて 

――「成長」か、なるほど、と腑に落ちるものがありました。

 

 父が急逝したのは齢44のとき。わたしが二十歳の誕生日を迎える4日前でした。お盆のさ中だったことと突然だったことで連絡が行き届かず、父の知人の中にはお葬式に間に合わなかった方もおられ、あとからあとからお焼香に来られては号泣してくださる方が続きました。「いつも笑わせてくれて元気がでた」「小さなことを気にかけてくれる優しい人だった」という声かけをいただくことからも、多くの方から好かれ慕われていた父の人となりに思いを巡らせたものでした。

 

 そんな父ではありましたが、残念なことに、家族との会話はほとんどなく、父との触れ合いも幼い頃の記憶しかありません。亡くなったときも、どう受け止めたらいいのか、正直、まったくわかりませんでした。

 

 だからでしょうか、年月が経てばたつほど、また父の年齢を越してからはなおのこと、「父という人」のことをきちんと思い出してあげなければという気持ちが強くなってきました。家族として娘として「父という人」の存在をしっかり認識しないことには、彼が生まれてきたことや生きたこと自体が危うくなってしまうという危機感からです。

 

 父を生きさせてあげたい。そのうえできちんと悼み直したい。供養の気持ちを持ちたい。そんな願いで少ない記憶を掘り起こす作業には、そのときどきの父の気持ちを想像するという作業が伴います。すると父との間にいつしか「対話」のようなものが芽生え、実際には聞けなかった声や言葉が引き出されてくる気がします。

 

 家族の前で言葉少なかった父が徐々に、明るくひょうきんな生来の彼を取り戻していく。わたしの中に新たに生まれた父とのコミュニケーションは単なる妄想ではないと信じたい想いでしたが、それをこそ「亡くなった人の成長」と呼んでいいものだったのではないか。

 

 ひとつの大事な解答を得ることのできた記事でした。

 

 

2020/4/18編集