本談義『望みは何と訊かれたら』

 (ミニ)ビブリオバトルに倣いテーマを決めて「しゃべれば3分」の分量と重量で紹介する「本談義」

  本日のテーマは、"極限状態 "です。

 

『望みは何と訊かれたら』

小池真理子 / 著

新潮社

 

 1970年代、革命活動に身を投じた過去を持つ沙織は、30年以上を経たいまでは、家族を得、夫の仕事のサポートをし、充実した日々を送っているが、胸の奥深くには、過去の体験から生じる熾火があり、それは彼女を揺さぶり続ける。

 

 

 忘れたかった。一生、忘れたまま、あの時代の記憶そのものを葬り、二度と目に触れるところにそれを持ち出したくはなかった。

 吾郎の記憶はそれほどに恐ろしく、切ないまでに甘美だった。それは、あの時代、わたしが通りすぎてきた闇、熱狂、嵐の記憶と共に、わたしを永遠の繭の中に閉じこめようとする。そして、いったんそこに引きずりこまれたら最後、わたしは一切の外部、一切の現実との繋がりを軽々と断ち切ってしまうことになるのである……。

 

 

 学生運動盛んな時代の熱い空気に気圧されるように読み進めるうちにも、登場人物たちが徐々に洗脳され異常な事態を異常と感じられなくなっていく心理描写のリアルさに、当時学生だったら自分もまた似たような現場に立っていたかもしれないという慄きに身がすくむ思いがしました。

 

 が、この作品で真に慄いたのは、洗脳の果て監視し合い凄惨なリンチに至る革命運動の描写よりもむしろ、逃亡後の沙織が吾郎という青年に出会ってからの閉塞感を味わう時でした。 

 

 

 説明も解釈も分析も、したくなかった。ただ、世界のあらゆる恐怖、あらゆる不条理、あらゆる悲しみから逃れ続けていたかった。

(中略)

 気がつくと窓の外が少し白み始めていて、わたしと吾郎はモルフォ蝶のいる部屋の真ん中で、素っ裸のまま、それぞれが別々の方向を向き、ブックエンドのようになって、いぎたなく眠りこけていた。

 

 

 沙織と吾郎、ふたりが野生動物のように絡み合う濃密な時間もまたある種の極限状態でした。息詰まるような濃厚な描写にさらされ、しかしどこか静謐な空気が、沙織の意識を経由し、不可思議な充実感をまとわせながら、本能に呼びかけてきます。あなたはこれを愛とみますか、と。

 意外なラストにも考えさせられ、読了後しばらく身体から抜けていかなかった。2007年に読了したその時の、そんな記憶が残っています。

 

 

 この本は、2007年11月、新宿紀伊国屋のサザンシアターで開催された「刊行記念トークライブ」で購入。イベント後に著者である小池真理子さんから直接サインを頂戴しました。2007年。13年前ですね。ですよね。そんなに経つんだ……。

 

 

  トークライブ中の言葉で特に印象的だったのが、

「最近の読書傾向が、わかりやすさにばかり走っている傾向にある」ことを危惧しているというお話。

「どんなにつまらないと思っても、最初の10ページは我慢して読まなければ」と小池真理子さんはおっしゃいました。

 わかりにくかったり、つまらないと感じたりする読書であっても、まずは読んでみるべし、と。なるほどと学んだのと同時に、彼女の作家としての自信のほどが窺える言葉だと感じました。

  

 

  

 ご主人の藤田宜永さんも同席された豪華な"作家ご夫婦"によるトークライブは、お二人の間に流れるおだやかな空気が会場に満ち、終始和やかで素敵なものでした。

(藤田さんは今年1月ご逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます)

 

 かつて新聞に掲載された小池さんのエッセイに、夫である藤田さんのことが書かれていました。藤田さんはご自宅で、"判で押したように"同じルーティンをとるということでした。困ることもあるけれど愛おしいという内容で、お二人の、互いにリスペクトし信頼し合う様子が感じられました。

 

『望みは何と訊かれたら』で、沙織は結婚後しばらくしてから、夫に革命活動に関わったことを打ち明けます。吾郎のことは除いて。伝えるべきと判断したことを共有し、反面、決して知られてはならないことは隠し通す。そうした覚悟の上に成り立つ夫婦のきずなと平穏な暮らし。この作品ではそれだけでは済まないけれど、沙織の選択は、家族や夫婦の在り方を考えさせます。

 

 いま、自宅で過ごす時間が長引いたまま、いつ終わるともしれない状況が続いています。こんなときこそ家族間で置き去りにされがちな、お互いをリスペクトし合う心と信頼する気持ちを、自分なりの尺度を持って奮い起こせたらいい。この本を再度手に取りながらそう思いました。